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「佐伯祐三―自画像としての風景」東京ステーションギャラリー
東京ステーションギャラリー (東京駅丸の内北口)
〒100-0005 東京都千代田区丸の内 1-9-1


「佐伯祐三―自画像としての風景」東京ステーションギャラリー
「佐伯祐三―自画像としての風景」東京ステーションギャラリー
「佐伯祐三―自画像としての風景」東京ステーションギャラリー
「佐伯祐三―自画像としての風景」東京ステーションギャラリー

 およそ 100 年前、大阪、東京、パリの 3 つの街に生き、短くも鮮烈な生涯を終えた画家、佐伯祐三(1898-1928)。 1924 年に初めてパリに渡ってからわずか 4 年余りの本格的画業の中で、都市の風景を題材とする独自の様式に達しました。 特に、一時帰国をはさんだ後の 2 回目の滞仏期に到達した、繊細で踊るような線描による一連のパリ風景は、画家の代名詞とされ、その比類ない個性は今までも多くの人を魅了し続けています。 私たちは、佐伯の絵画に向き合う時、風景に対峙する画家の眼、 筆を走らせる画家の身体を強く想起させられます。 そして、描かれた街並みの中に、画家の内面や深い精神性を感じ取ります。 それゆえ作品はしばしば、画家自身を映したもの―自画像にたとえられます。 本展では、佐伯が描いた「大阪」「東京」「パリ」の 3 つの街に注目し、画家が自らの表現を獲得する過程に迫ります。
 展覧会には、日本最大の質と量を誇る大阪中之島美術館の佐伯祐三コレクションを中心に、画家の代表作が一堂に集結。 展覧会初出品となる作品も出展されます。 18 年ぶりの大回顧展となる本展は、佐伯芸術の魅力を再発見する機会となることでしょう。


会期: 2023 1/21 〔土〕→ 4/2 〔日〕 東京展は終了しました。 大阪・巡回展で開催。
休館日: 月曜日(3/27 は開館)
開館時間:10:00~18:00 ※金曜日は 20:00 まで ※入館は閉室30分前まで 
会場:東京ステーションギャラリー (東京駅丸の内北口 改札前)
   主催:東京ステーションギャラリー [公益財団法人東日本鉄道文化財団]、読売新聞社


巡回先:大阪中之島美術館 大阪・中之島公園
2023 年 4 月 15 日〔土〕~6 月 25 日〔日〕 大阪展・巡回展は終了しました。


'2023 1_20 「佐伯 祐三―自画像としての風景」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。
画像をクリックすると 「冨田 章 館長(東京ステーションギャラリー)」 と 「高柳有紀子 主任学芸員(大阪中之島美術館)」の展覧会説明が大きな画像でご覧いただけます。

プレス内覧会&説明会「佐伯祐三―自画像としての風景」東京ステーションギャラリー
・No.010 佐伯祐三(1898-1928) 《 立てる自画像 》 1924 年 油彩、カンヴァス 80.5 x 54.8 大阪中之島美術館(※裏面に No.086 《夜のノートルダム(マント=ラ=ジョリ)》)

佐伯祐三―自画像としての風景」
プレス説明会 & 内覧会 '2023 1_20
会場: 東京ステーションギャラリ―



プレス内覧会&説明会「佐伯祐三―自画像としての風景」東京ステーションギャラリー

―2023 1_20 プレス内覧会の説明会、プレスリリース 2023. 10 月、 「佐伯 祐三―自画像としての風景」 カタログよりの抜粋文章です―

「展覧会の見どころ」 佐伯 祐三―自画像としての風景 / Saeki Yuzo: Emerging from the Urban Landecape
◎厳選した代表作 100 余点を一堂に展示
◎ 東京では 18 年ぶりとなる回顧展
◎ 赤いレンガ壁の空間で味わう、重厚なパリの街並みを描いた数々の名作

目 次 / Contents
・プロローグ 自画像 / Prologue: SELF-PORTRAITS
第1章. 1) 大阪と東京: 画家になるまで / BEFORE BECOMING AN ARTIST
     2) 大阪と東京: 〈柱〉と坂の日本―下落合と滞船 / PILLARS AND HILLS―SHIMO-OCHIAI AND MOORED SHIPS, 1926-1927
★ 親しい人々の肖像 / INTIMATES
★ 静 物 / STILLIFE
第2章. 1) パリ: 自己の作風を模索して / SEEEKING HIS OWN STYLE, 1924
      2) パリ: 壁のパリ PARIS WALLS, 1925
      3) パリ: 線のパリ / PARIS LINES, 1927
第3章. ヴィリエ=シュル=モラン / VILLIERS-SUR-MORIN
・エピローグ 人物と扉 / Epilogue: PEOPLE AND DOORS


―2023 1_20 プレス内覧会の説明会、プレスリリース 2023. 10 月、 「佐伯 祐三―自画像としての風景」 カタログよりの抜粋文章です―

'2023 1_20 「佐伯 祐三―自画像としての風景」 展覧会の概要説明 & プレス内覧会の作品の一部をご紹介します。
画像をクリックすると 「2. 〈柱〉と坂の日本―下落合と滞船」 の章が大きな画像でご覧いただけます。

第 1 章.  大阪と東京― 1 : 画家になるまで / BEFORE BECOMING AN ARTIST

佐伯祐三 No.015《河内打上附近》NO.016《河内燈油村附近》

 1898 年 4 月、大阪府中津村(現:大阪市北区中津)の浄土真宗本願寺派の古刹、光徳寺の次男として佐伯祐三は生まれた。

上京して川端画学校で半年間学んだ後 1918 年東京美術学校西洋画科予備科へ入学。 美術学校ではデッサンコンクールで上位に入賞。 1923 年に美術学校を卒業 、同年11 月末、妻子を伴って神戸港からフランスへ出発した。

佐伯は実際の風景を眼の前にしながら制作を行う画家であり、とりわけ何を対象とするか、眼にした風景のどこを切り取るか、ということは絵画としての完成形に強く結びついていた。 1 回目のパリで独自の作風を完成した頃から成熟したものとなっていく。 渡仏前の美術学校時代の作品は、郊外を写生した風景画に確かな技量は見せつつも、まだ、画題の選択や表現は独創性に乏しい。

・右 No.015 佐伯 祐三1898-1928 《 河内打上附近 》 1923 年 油彩、板 24.5 x 33.7 大阪中之島美術館
・左 No.016 佐伯 祐三1898-1928 《 河内燈油村附近 》 1923 年 油彩、板 24.4 x 33.6 大阪中之島美術館

・1923 年 11 月、神戸港からパリへ出航した佐伯は、10 月中旬、渡仏の挨拶のため父の実家大阪府四条畷の浄土真宗本願寺派・光圓寺の住職浅見慈雲・叔父を訪れた。 No.015 《川内打上附近》、No.016 《川内燈油村附近》はその際描いた作品と考えられている。 佐伯がヴラマンクと出逢って開眼するフォーヴィスムの画風を予期させる。


   

画像をクリックすると 「2. 壁のパリ / 3. 線のパリ」 の章が大きな画像でご覧いただけます。

第2章. パリ― 1 : 自己の作風を模索して / SEEEKING HIS OWN STYLE, 1924

佐伯祐三 No.060《オーヴェールの教会》、No.62《村の教会堂》

 佐伯祐三のパリ時代は、1924 年 1 月からの約 2 年と、1927 年 8月からの約 1 年の 2 回にわたる。 ただし最後の 5 ヵ月弱は病の悪化により筆をもてなかったため、パリでの創作期間は合計してもわずか 2 年 7 ヵ月である。 その凝縮された画業の中で生まれた作品の多くが、パリの街並みを題材とする。

佐伯芸術を成立させたのはパリであった。 石造りの壁や広告のポスターといったモチーフの重要性だけではない。 この地で感じた精神的壁、葛藤、歓び、高揚、焦燥‥‥‥、さまざまな画家の内面がその眼と手を通してカンヴァスに刻み付けられ、比類のない表現を生み出したが、 それらはいずれもパリという場所でこそ画家が経験し得たものだった。

1 回目のパリでは重厚なマチエールに、2 回目のパリでは画面を跳躍する線描において頂点を極めるが、自らの表現を確立したように見えても、“完成形”に安住することはなかった。  

・右 No.060 佐伯 祐三1898-1928 《 オーヴェールの教会 》 1924 年 油彩、カンヴァス 59.5 x 71.5 鳥取県立博物館
・左 No.062 佐伯 祐三1898-1928 《 村の教会堂 》 1925 年 油彩、カンヴァス 45.5 x 61.0 大阪中之島美術館

・No.060 《オーヴェールの教会》オーヴェール=シュル=オワーズはゴッホ終焉の地として知られ、前田寛治や中山巍も里見勝蔵にヴラマンクとの衝撃的な出会いの翌日にゴッホ兄弟の墓に参り、ガシェ博士の所蔵する 20 点余りのゴッホ作品を見学した。 本作品はオーヴェールを再訪した際に制作されたもので、ゴッホの最晩年の作とほぼ同じアングル、構図で教会堂を描いており、ゴッホへのオマージュと言える。

・佐伯祐三というとパリの壁のイメージが強い。 佐伯のスタイルは同じではなくその時期・時期の街、村、に行くと新しい表現、少しずつ自分のスタイルを変えている。 第一次パリ時代(1924~25)の 2 年間のあいだ、佐伯が画風を確立したのは 1925 年後半と考えられる。 下町のお店の壁を画面いっぱいに描くという「作品 No.077 《壁》」の画風を確立。 彼自身の審美眼でとらえた下町風景、壁・広告に執着。 第二次パリ時代(1927/8月~)の佐伯の心情の変化による作風の変化が現れる。 また、佐伯は早描きで絵を描くのが早く、1 ヶ月に 数 10 枚制作する。 1 日に 2 、3 枚描く、非常に速い。 線が躍動し生き生きと生命力の線になる。 やがてモランの作品では太く強い輪郭線、一気に線を描くので絵に躍動感を生み出している。 佐伯は、むしろスタイルとして早描きをしていた。


画像をクリックすると 「エピローグ 人物と扉」 の章が大きな画像でご覧いただけます。

第3章. ヴィリエ=シュル=モラン / VILLIERS-SUR-MORIN

佐伯祐三 No.135《モラン風景》、No.138《煉瓦焼》

 1928 年 2 月、佐伯はパリから電車で 1 時間ほどの小さな村、ヴィリエ=シュル=モランに滞在し、新たな造形を模索した。 村の中心である教会堂をはじめ、至るところが題材となり、画面には力強く太い線と構築的な構図が復活する。

モランでの佐伯の創作態度は厳しく、朝早くから晩遅くまでへとへとになるまで描き、村に一軒しかないホテルに戻って批評し合う日々について、荻須と山口は「荒行であった」と回顧する。

厳しい寒さの中での自らを追い込むような制作態度は確実に体力を奪っていった。 20 日ほどの滞在で生み出された 30 数点の作品は、まさに命を削りながら創り上げた珠玉の作品群となった。  

・左 No.135 佐伯 祐三1898-1928 《 モラン風景 》 1928 年 油彩、カンヴァス 59.6 x 91.8 大阪中之島美術館
・右 No.138 佐伯 祐三1898-1928 《 煉瓦焼 》 1928 年 油彩、カンヴァス 60.2 x 73.1 大阪中之島美術館

・No.135 《モラン風景》 教会堂から南東に歩いた、民家の並ぶ一角を見たままに描いた作品である。 この場所は実際に右上がりの勾配で、佐伯は不安定な坂道にイーゼルを立てて描いたのであろう。 / ・No.138 《煉瓦焼》 モランの村はずれにある煉瓦焼の窯が描かれる。 佐伯の真価を最初に見出した収集家の山本發次郎が初めて目にして魅了されたのは本作であったという。 佐伯芸術の到達点であり、紛れもない傑作の一つである。



'2023 1_20 「佐伯祐三―自画像としての風景」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。
画像をクリックすると 「プロローグ 自画像」 が大きな画像でご覧いただけます。

佐伯祐三―自画像

佐伯祐三 No.001《自画像》、No.007《自画像》

・右 No.001 佐伯 祐三1898-1928 《自画像》 1919 年頃 インク、紙 29.3 x 19.0 和歌山県立近代美術館
・左 No.007 佐伯 祐三1898-0928 《自画像》 1920-23 年頃 油彩、カンヴァス 45.5 x 33.4 三重県立美術館

佐伯 祐三 SAEKI Yuzo (1898-1928)

年 譜 (大阪中之島美術館編)から抜粋しています。

・1898 年 0 歳 4 月大阪府西成郡中津村(現:北区中津)の浄土真宗本願寺派・房崎山光徳寺 14 代住職佐伯祐哲(1862-1920)父と母タキ(1865-1944)の次男として生まれる。
・1915 年 17 歳 北野中学校 4 年生頃から油絵を描き始め、近くの赤松麟作の洋画塾に学ぶ。 父から医者になることを期待されるが画家を志望する。 18 歳頃北野中学校野球部でセンター主将として活躍。
・1918 年 20 歳 4 月東京美術学校西洋画科予備科に入学。 9 月同校西洋画科本科 1 年に進級。
・1920 年 22 歳 11 月東京築地本願寺で銀座の貿易商の娘、池田米子と挙式。
・1922 年 24 歳 1 月米子との結婚届を出す。 2 月長女彌智子が誕生。
・1924 年 26 歳 (前年、11 月米子、彌智子と神戸港を出港) 1 月佐伯一家がパリ、リョン駅に到着、中山巍が出迎える。 3 月クラマールの借家に週末には里見勝蔵、前田寛治、中野和高、中山巍、林龍作らが集まった。 5 月福沢一郎パリに到着リヨン駅で出迎える。 9 月川口軌外や木下勝治郎らとバルビゾン、フォンテーヌブローなどに行く。 12 月モンパルナス駅の南にアトリエを移りこの頃パリの下町風景を描くようになる。
・1926 年 28 歳 1 月中山巍のアトリエで森田亀之輔、川口軌外、林龍作、福沢一郎らが集まって佐伯の送別会、帰国ルートはミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、アッシジ、ローマ、ポンペイと南下してナポリに向かうことにする。 2 月ナポリで日本郵船白山丸に乗船。 3 月神戸港に到着、光徳寺に帰る。 4 月下落合のアトリエに帰る。 5 月里見勝蔵、前田寛治、小島善太郎、木下孝則と 1930 年協会を結成。 1930 年協会第1回洋画展覧会を京橋日米信託ビルで開催。 9 月有島生馬、石井柏亭の推薦で、第 13 回二科展に、新帰国者の発表として特別陳列 19 点を出品し二科賞を受賞。
・1927 年 29 歳 3 月前田寛治の誘いで第8回中央美術展(東京府美術館)に 《鉄道工夫》 《風景》 を出品。 新会友に推挙される。 米子も 《静物》 でブロックス賞受賞。 4 月東京新宿、紀伊国屋で石井柏亭の推薦で個展を滞欧作と 《下落合風景》 など 23 点で開催。 6 月「 1930 年協会第 2 回洋画展覧会」に 5 点を出品。 米子も第 4 室に 《花》 など 4 展を出品。 7 月シベリア経由パリ全区間2等寝台切符を購入、東京駅で里見勝蔵、藤川勇造、鈴木誠らが見送る。 8 月パリに到着。 9 月第 14 回二科展に下落合時代の 《風景》 《滞船》 を出品。 神吉逸治宛書簡:引っ越しの予定と、渡仏後 14 枚目を描き 「自分は今度は決死の勉強をする決心でいる」と告げる。 10 月モンパルナス162番地にアトリエを移る、荻須高徳、山口長男、横手貞美、大橋了介が予定より早くパリに到着。 11 月第 20 回サロン・ドートンに 《広告のある家》 《新聞屋》 が入選。
・1928 年 30 歳 1 月 里見勝蔵宛書簡:再度渡仏してから 107 枚目の絵を描いたが良い絵は 5 、6 点で、「だがまだアカデミックである。 そのことを日々悩んでいる」とする。 3 月頃喀血病床につく。 6 月クラマールの森で自殺未遂。 パリ郊外のセーヌ県立ヴィル・エヴラ-ル精神病院で自殺念慮を伴うメランコリー症候群で身体状態はきわめて不良と記す。 8 月同病院で死去。 ペール・ラシェーズ墓地で火葬の仮埋葬。 葬儀参列者、佐伯米子、椎名其二、山田新一、木下勝次郎、木下孝則、木下義謙、福沢一郎、 林龍作、大橋了介、横手貞美、山口長男、荻須高徳、林重義、川瀬元子、萩谷巌ほか。 彌智子(長女)がオテル・デ・グランゾムで病死(享年 6 歳)。 10 月米子が祐三、彌智子の遺骨と帰国。 11 月光徳寺で本葬。

 東京美術学校西洋画科卒業後の 1923 年、巴里に向けて日本を出港。 翌年初夏、里見勝蔵の紹介で訪問したフォーヴィズムの巨匠ヴラマンクに「アカデミック!」と一喝され、作風を模索する。 やがてユトリロに触発され、壁の物質感を厚塗りの絵具で表現したパリの下町風景の連作を展開し、1925 年のサロン・ドートンヌで入選を果たす。 1926 年に一時帰国し、下落合の風景や大阪での滞船の連作を制作するも、日本の風景に飽き足らず、1927 年 8 月にシベリア鉄道経由で再渡仏。 パリの街並みを精力的に描き、広告の文字を題材とする繊細で跳ねるような線の表現で、独自の画境に達する。 1928 年 2 月に荻須高徳、山口長男らと近郊のヴィリエ=シュル=モラン村へ写生旅行。 3 月、パリ郊外の精神病院で 30 歳の若さで亡くなった。



お問合せ:03-3212-2485
美術館サイト:http://www.ejrcf.or.jp/gallery/
主催:東京ステーションギャラリー [公益財団法人 東日本鉄道文化財団]]、読売新聞社

参考資料:Press Release 2022. 10 月、「佐伯 祐三―自画像としての風景」 カタログ、チラシ他。

※画像の無断転載禁止


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